【碑文】
 えーこのたび我が子を供養させて頂きます水前寺だんごです。この子は2016年の炬火に出すつもりでしたが親の至らなさによりあえなく亡き者となりました。一応最後まで書いたんですがあまりにも整わず、かと言えば熱量もそれほど持たず……。ずっと供養しようと思ってたんです。けど今さらリブロに載せるのもなんかアレだなと躊躇い、ずっと腐食し干からびていくのを隣で放置しているのみでした。今回落ち着いた場所を提供して頂けることとなり、やっとあの子も安心して眠れることでしょう。まあ結局死んでるんだけどね。生きてないんだけどね。死体閲覧注意で、それでも興味のあるちょっと変態気質な方々はどうぞ萎びたミイラをご覧になっていってください。それ以外の方々はどうか足早に去ることをお勧めします。時間をドブに捨ててはならない。













響くは終焉 轟くは無 (仮)

水前寺だんご  



永遠を信じてしまえるというのなら、どんなに夢想盲目な人生なのでしょう
永遠を夢見ることも出来ないのなら、どんなに色彩の無い人生なのでしょう





 太陽がアスファルトを焦がす灼熱の季節。
 そんなとある日、変わらない暑さの中、気まぐれのように現れた夕立。轟々と降り敷ける雨。その雨は、機関銃の如く二人の体を撃ち濡らす。
 二人は、横になっていた。血を流して。道路に横になっていた。
 雨はやはり血を洗い流すのではなく、二人の体を貫きにかかるようで。
 山の草原はどこまでも見渡すことは出来るが、どこも霞みがかっていて。
 アスファルト道は行く末が、雨の中、跳ね上がる水しぶきで見えない。
 どれくらい経ったのか。いや、晴れ間を見せない、圧し掛かるような黒雲は時間を止める。やまない雨は秒を刻んでも分を得ないようであった。
 一人が、上半身を起こす。ふらふらと。残り僅かな力を腕に込めて。重力に抗いながら。雨の圧に逆らいながら。顔の右半分を鮮血に染めて。
「…………冗談……だろ…………」
 辛うじて絞り出した声は掠れ、血の混じった唾が口角から滲み零れる。黒髪は雨に濡れ静かに艶やかに映える。
 高さ六十センチ斜めの世界は今にも反転してしまいそうで。ぐらぐらと揺れる赤色に霞んだ視界に、雨の中火だるまのように燃え盛る鉄の塊。そのすぐ傍には天を貫かんばかりの巨大な火柱。そして、もう一人の――横たわった女の――その姿を捉えたところで、一人は――男は――また、意識が曖昧になる。泥沼に沈み込むように。ずぶずぶと。
 全てを粛正し洗い流す雨は、罪人の罪を咎める。
 男の影が黒い水たまりに溶けた。





 敏明が目を覚ましたときに目に入ってきた光景は白い天井だった。敏明は体に気怠さ以上の疲労感を感じた。瞬きでさえ、まぶた付近の筋肉を酷使しているかのように思われた。頭もすっきりしなかった。
「あら、起きた?」
 女の声がした。敏明の左隣から、聞きなれた女の声。落ち着いた声色だが、若さを感じる。
 敏明が声のする方へ寝たまま顔だけ向けると、白いカーテンを躍らす風に薄茶色い髪を揺らしながら、女がベッドの上で上体を起こして敏明を見ていた。
 すらっとした輪郭。内側から輝く白陶磁器のような肌。薄い唇。滴るような長い睫毛。光をも吸い込むような黒い瞳。
 女を見て敏明は呟く。
「……柚木」
 その声を出すのにいささか重みを感じた。
「……気分はどう?」
 優しく柚木は問いかける。
 その優しさは、ハッカをまぶしたホットミルクを彷彿させる。彼女の後ろの窓には夏の空が広がっている。彼女の温かな雰囲気に解されて敏明は思い出すようにぽつりぽつりと話し始めた。
「…………ああ、なんかね、夢を見ていたんだ…………。どこか遠くの山道でね……君と車でドライブしてたんだ……。夏の日かな、君が水色のワンピースを着ていたし。…………でね、突然夕立がやってきて、視界が悪くなって……それで…………」
 敏明は一旦口を噤んだ。言葉が出てこない。それは恐怖に因るものであった。
「…………それで……すごい衝撃があって……気づいたら道路に倒れてて…………君が少し離れたところで……血を流していて………………あれ?」
 敏明は一抹の疑問を抱いた。
 悪夢を思い出すだけにしては、胸の動悸がやけに激しい。
 風が止み、カーテンが凪ぐ。
そして、段々と、敏明は違和感を覚えていく。
 枕元に熊のぬいぐるみもなければシーツの色だって黄緑色ではない。天井との距離もいつもと僅かに違う。そもそも、ベッドは二つも無かった。よく見れば、柚木は上半身を起こしているのではない。ベッドは途中で曲がって背もたれとなるタイプのものだった。そんなベッドに見覚えは無い。敏明にはこんなに白に満ち溢れた空間は見覚えがなかった。ここはどこなのか。ここは、いつも敏明が柚木と二人でいる部屋ではない。
 何故知らない場所にいるのか。
 さっきから何故体が重いのか。頭が締め付けられるように痛いのか。
 ――夢の話で何故こんなに――
「へぇ、そうなんだ。それは怖い夢を見たんだね、アキ」
 柚木の声が敏明の耳を犯す。呼ばれ慣れたアキという呼称さえも、不気味な響きを持って、敏明の首筋をぞわりとさせた。こんなに恐れる理由に心当たりはない。だがしかし、記憶が埋もれているだけのような微かな思い当たりを感じる。
 そして敏明は、違和感の正体、根源、そして現実を目の当たりにする。
「でもね、アキ」
 敏明にとって柚木の美しさはこの世の真理で。
「アキの見た夢ってね」
 だから、真理の崩壊の音色は残酷で。
「夢じゃないんだよ」
 そう呟く柚木の腕は、肘から先が無かった。


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 柚木は異様に短くなった腕を、振ってみせた。包帯に巻かれた肩から肘までの腕が揺れ動く様子は、テディベアが子どもに操られ手を振っているようであった。
 彼女の正常ならざる人の形をはっきりと認識出来た敏明は
「やっぱり、僕のせいなんだね。ごめん」
 するりと、喋った。驚きも恐怖も彼には無かった。これは、敏明がいち早く状況を理解して彼女への適切な対応をしたというわけではない。彼女の痛ましい現状を目の当たりにし、脳の処理能力が追いつかず、必要最低限の言語対応しか出来なかったのでである。
「心にもないこと言わなくていいよ。アキの謝罪癖、とりあえず場を整頓するために言ってるって知ってるから」
 敏明の無意識の癖を指摘する柚木。これまでの彼女なら思っていても口には出さなかった。
 真っ白な包帯の向こうに広がっているであろう、おぞましく深くえぐられた傷とその周りに噴き出している膿をようやく想像するに至ったとき、敏明は思わず吐き出しそうになった。
 突然白いドアが横に開き、ドアの向こうからメイクが目元だけ気合の入った三十歳前後くらいの看護師が入ってくる。
「あ! 椎葉さん、起きたんですね。良かったあ。すぐ先生を呼びますから」
 そうするとその看護師は、敏明のベッド近くの電話で手短に話を電話の向こうの相手に小さな声で伝えると、「少し待っててくださいね」と言ってすぐに部屋から出て行った。
 看護師が出ていくと、また敏明と柚木だけの部屋になった。テレビや冷蔵庫、クローゼットが一つずつあるという意味では二人過ごしたあの部屋と変わらない。ただやはり、二つに分かれたベッドと、何となしに伝わるお互いの心の距離が、相違を如実に表している。決して心の距離が遠くなったとは断定出来ない。近くなったのか遠くなったのか、敏明には分からなかった。その分からなさが、これまで体験したことの無い心の不安定感を誘っていた。もやもやとした思いが白に染まった部屋に張り付いていた。
 三分経った頃、先ほどの看護師に先行して、がっちりとした体格の白衣の男が白い部屋に入ってきた。ハリネズミのようにピンと立った頭髪。しかし顎先にうっすら無精髭が生えている。
「こんにちは、いい天気ですね」
 唐突にハスキーでダンディな声が白衣の男から敏明に向かって発される。
「? ……はあ」
「返事は出来るようですね……。ああ起き上がらなくて結構です。寝たままでいいですから……。ところで、自分の名前を言えますか?」
「……椎葉、敏明です」
「はい、大丈夫です……よしっと。ああ、紹介が遅れました、医師の萩と言います。よろしく」
 時折手元の紙にボールペンを走らせながら萩と名乗る医者は話す。
「萩……先生」
「そうです椎葉さん。…………では、あなたは今病院にいるわけなんですが、その経緯を覚えていますか?」
「……」
 敏明が黙って柚木を見遣る。彼女は、ただ静かに敏明と医者を見ていた。
 そこで、敏明は、さきほど柚木に話した「夢らしきこと」を萩医師に話した。「先生、でもこれが本当にあったことなのか、夢なのか分からないんです」敏明は付け加えた。
 聞き終えた萩医師はベッド脇の丸椅子に腰かける。そしてしばらく左手で眉間を解したあと、敏明を真っすぐに見つめ話し始めた。
「椎葉さん、聞いてください。まず、あなたの今話していたことは、現実です」
 敏明は全身の血液が急激に冷えていくのを感じた。
「あなたと佐倉柚木さんが乗っていた車は、ミラ660Xですね?」
「…………はい、白の……中古で買った、やつです」
「それで、岱明山の農道、俗にグリーンガーデンと呼ばれる道を走っていましたね?」
 岱明山農道。横になだらかな岱明山の山腹に広がる平野。そこに、どこまでも広がるかのような美しい草原とどこまでも伸びるかのような滑らかな一本の道路、そして一本のギンヨウアカシアの木がある。この広大で美しい自然の様子を称してグリーンガーデンと俗名がついた。このギンヨウアカシアは六メートルを優に超す大木である。何故日本の草原にアカシアが生えているのか発祥は不明であるが、その謎めきを以てドライブ目当ての人たちに隠れエリアのように見なされている。
「……はい」
「分かりました………………率直に言うと、八月二十日の夕方頃、あなたたちの乗った車は突然来た豪雨による視界不良のせいか、あるいはタイヤがスリップしたのか、あの木に正面衝突してしまったのです」
 そう言うと萩医師は、一枚のプリントアウトされた写真を、横たわる敏明の目前に晒してきた。そこには、黒炭と化しつつある大木と、それにぶち当たりフロントのひしゃげた車が僅かにシートから炎を灯す様子がモノクロで写されていた。
「……これ……は」
「あなたたちを最初に発見した人が事故数時間後に撮影したものです。正直言って、車外に二人とも放り出されたのが不幸中の幸いですよ」
 そして萩医師は柚木の方に向き返って言う。
「佐倉さんの両腕に関しては負傷がひどく、発見時すでに事故後数時間が経って壊死しかかっていたので、やむを得ず、切断の処置を施しました」
 さらりと現実が言葉となって敏明と柚木に認識を強制する。いや、この萩医師、患者に最もダメージの長引かない宣告をやってのけたのだ。夥しい経験の中で、萩医師が見つけた対処術である。
 柚木は、作ったような笑顔で萩医師に話す。
「いえ、命を繋ぎ留めていただきありがとうございました。それに、椎葉が起きる前に一度聞きましたし」
「え……そういえば、先生、今日っていつなんですか? 僕は事故後どれくらい寝ていたんですか?」
 一拍置いて、萩医師が話す。
「八月二十四日です。そのお昼過ぎ。佐倉さんは二日前の夜中に意識が戻ったんですけどね。あなたは大きな外傷や内傷は見当たらなかったのに意識だけ戻らなくて、最悪植物状態を覚悟しましたが……。そうそう、それを鑑みて、このあと落ち着いたら精密検査を受けてもらいます」
 そう言うと萩医師は立ち上がり、白い部屋から出て行こうとする。
「は、萩先生!」
 敏明が少し声を張って彼を呼び止める。
「なんですか?」
「…………柚木の……佐倉柚木の……手は……どうしてもダメだったのですか」
 頭の鈍痛を感じながら敏明はそれでも尋ねる。萩医師は敏明に背を向けて語る。
「……残念ながら、手と命、医師である私は繋ぎ留めるものを間違ってはいけないのです。……もう一方を犠牲にしてでも」
 振り返らず彼は出て行った。あとに看護師も続く。
 また二人きりの白い部屋になる。
「なんで、先生に腕のこと言ったの」
 柚木が呟くように尋ねる。
「…………受け入れ難くて……」
「…………アタシもよ」
 続く沈黙さえ、白く。


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 いくつかの検査を終えた数日間で、二人はここがグリーンガーデンのある県外の病院であること、二人を発見してくれた人もまた県外の人で再連絡が通じないこと(誤った携帯番号を救急に伝えてしまったようだ)、二人のそれぞれの緊急連絡先に繋がらないことなどを知った。
 敏明は吐息のような溜息をつく。柚木の両親は彼女が幼い頃続けざまに亡くなっている。敏明の両親もまた、敏明が小学生のとき父親が癌に伏し、残された母親も敏明が大学に合格した春にこれまでの疲労から解放されたかのように安らかに永眠についた。大学入学後、敏明の灰色になった世界の中、柚木だけが、自分と同じく灰色を超えた陰りのある藍色に鈍く輝いて見えた。それは彼女も同じだったのだろう。自分と同じ苦しみを背負って生きている気がした。同じ学部の同じ授業で、どちらともなく話し始め、食事に誘い、公園で語らい、そしてついに夜を明かして人には言い辛い身の上話を告白しあった。そして当然だったかのように、二人は結ばれていた。
「いいのよ」
 不意に柚木が呟く。
彼女は、敏明の表情から彼が今何を考えていたのか把握していた。
「今さら気にしないわ。だってアタシも今限りなくお母さんたちに近づいているもの」
「……悲観的になるなよ」
「事実よ」
「………………ごめん」
「だから謝らないでってば」
「それでも! ……やっぱり僕のせいで……」
 事故があって数日、敏明を襲い始めたのは猛烈な罪悪感だった。最初は自分の不幸を呪いもした。なぜ自分たちが……と。しかし、戻らない過去、柚木の失われた両腕。この責任はどこにも押し付けられない。紛うことなく自分の責任であると。敏明は感じたのであった。
「…………」
柚木は黙ってカーテンの隙間の青空を見ている。敏明には彼女の表情が見えない。
「……怒ってくれよ。怒鳴ってくれよ。泣きわめいてくれよ……。じゃないと僕は……」
 柚木が感情的にもなれば、敏明は許されたのだろう。ただその怒りを受け入れれば罪を贖った気になるのだから。その嘆きに寄り添えば同じ気持ちを共有した優しさを持ち得た気になるのだから。
「その優しさってさ」
 柚木が外を眺めたまま言う。外には崩れた入道雲のようなものが潰れ浮かんでいる。
「相手を思いやる優しさってさ、結局、怖がってるんだよね。相手をさ。気を遣ってさ、顔色伺ってさ。それに気づいた相手の方はうんざりだよ。なんかね」
「……!」
 数年連れ添った敏明でさえ、時折柚木の敏明に対する洞察眼に畏怖を覚える。しかし今までの彼女と違って、歯に衣着せない言動が増えてきた。両親の他界を告白しあった敏明ではあるが、そんな彼を以てしても彼女の知らない一面を知った驚きに戸惑っていた。
 懇願と驚きの入り混じった表情の敏明に、柚木が思い出したかのように、ぽつり話しかける。
「そういえばさ、出来なくなっちゃったね」
「…………?」
「…………アタシがアキに家事も自炊も負けてさ……」

付き合い始めてすぐ敏明は下宿部屋を出て、柚木の住む部屋へ越し、寝食をともにした。一人暮らしが長かった柚木の方はカップ麺やスーパーの惣菜に手を出すことが多かったためか、彼女の自炊はお世辞にも上手いとは言えなかった。それより独り身の母を手伝ってきた敏明の方が自炊の味や食事経費のやりくりも数枚上手だった。家事洗濯も同様であった。柚木はそのことに恥じらい隠しに拗ねて敏明に言った。「せ、せめて散髪くらいしてあげるわよ! 一人でじゃ髪は切れないでしょ?」実際敏明は、高校生の頃から節約の意も込めて自分で鏡を見ながら散髪していたのだが、涙目で訴える彼女を見るとどうしても断れなかった。そしてその後、時々彼の髪型は不格好なものとなった。高校生の頃の方が明らかに良かった。それでも、この不格好さが、敏明の幸せそのものだった。

 全てを思い出した敏明に柚木は続ける。
「もう、出来ないんだね。アキの散髪」
 雷に打たれたような衝撃が敏明に走る。
「この手じゃ、ハサミも持てないからね…………。何も、何もできないから。アタシ」
 哀愁帯びた女の声に、地響く男のすすり泣きが交差した。


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 外傷の治癒経過の診察を終え、敏明は脱いでいた患者服を看護師に羽織ってもらう。萩医師はカルテを眺めデスクに置いていたコーヒーを一杯啜った。
「……冷めてないですか、ソレ」
「コーヒーかい? 別に熱くなくていいんだ。火傷の心配もないし」
 猫舌なのかと尋ねて他愛無い会話を続けようかと迷っていたところで、萩医師の方から話題を変えてきた。
「椎葉さんの傷は回復してきています。順調と言っていいでしょう。外傷に関しては奇跡的と言えるくらい、深刻な負傷が無かったですからね。ただやはりそのぶん見えない傷が心配です。脳や神経の傷は、一見回復しきったあとに出てくることもありますから」
 テキパキと敬語に切り替えて話す萩医師。こうしたところに彼の医者としての真摯さが垣間見える。
「……そう、ですか」
「とは言っても心配はないだろう。たぶん僕の見立ては、今年の重傷者の中で最速退院を記録すると思うよ」
 しかしこうしてフランクに話すようになったのも、一重に敏明が先生との距離を縮めようと奮闘したからだ。とある先日、リハビリを始めた頃合いの敏明が、屋上で一服する萩医師を見つけ出し「一本一緒にいいですか」と言ってきたときには萩医師も驚いてタバコを口から零した。そんな敏明の目的は、たった一つに他ならない。
 押し黙って俯く敏明を見やり、カルテで扇ぎながら萩医師は言う。
「君が聞きたいのは、いつだって佐倉さんのことなんだろうね」
 ぴくりと敏明の肩が動く。分かりやすい反応に半ば感心しながら、萩医師は続ける。
「正直、辛い話だ。こんなに若いのに、手を切断だなんて。いや、私が神経縫合と移植技術に精通していれば……」
「ブラックジャック先生じゃないですか、ソレ」
「…………君も言うようになったな」
「元々こんな性分ですよ」
「嘘つけ。そのジョークセンスは初心者だ」
 そんなぬるい会話の絆創膏で心の傷を包んでおく。そうでもしないと、ズキズキと鈍い痛みに耐えられそうになかった。敏明も、そして萩医師でさも。看護師はとうの昔に診察室を出てどこかへ行った。
 どちらともなく薄く短く笑ったあと、萩医師が申告する。
「腕以外の他の外傷もなかなか重い。言っては何だが、搬送されてきたときは絶望的だと思ったよ。それでも君よりも早く意識が戻って、ありのままを伝えても、発狂も号泣もせず、少し悲しそうな顔をするだけだったのは正直びっくりしたよ。今の医療科学の域にない、精神論。こうも簡単に目にすると、なんか悔しくもあるけどね」
 あれから十日か、と萩医師が呟く。
「柚木は治ると思いますか」
「分からない。あのひどい外傷以上に、彼女の内面が見えてこないことの方が今後を左右してくるんじゃないのかと僕は思っている」
「内面、ですか」
「そう。君は最近彼女とどんな話をした? どんなことに気づいた?」
「は、話ですか?」
 敏明が言葉に詰まる。萩医師は顎鬚を弄りながら返答を待つ。
「そうですね、実を言うと、会話らしい会話を出来た気がしないんです。最初僕がずっと謝り続けてたから、会話にならないんだ、って思って、極力今まで通りの会話をしようとし始めたんです。だけど、彼女の返す言葉も絶え絶えですし、やっぱりどこか噛み合ってないように感じるんです」
「なるほど、他には?」
「他には……気づいたこととかですか? まあ、最近柚木は専ら何か書いてますね」
 書いているというのは、両腕を無くした彼女の要望で、看護師がタブレットと義手型タッチペンを用意したのである。左腕は切断術後の今でも問題なく動かせるということで、特別に許可が下りた。普段患者服に隠れて見えていない、包帯の巻かれて短くなった彼女の腕に機器が取り付けられている光景に、敏明は未だ慣れずにいた。彼女への愛を時折上回るほどに、その人間の不自然さに対して生理的な嫌悪感を無意識のうちに抱いていた。
「ふーむ。何を書いているか聞かなかったのかい?」
 背もたれ椅子の向きを反対に変えて座り、胸板を背もたれに圧して、お行儀がいいとはいえない姿勢で萩医師は尋ねる。
「聞いたことはあります。ただ教えてくれないんです。日記なのか、友達にメールなのかも分からなくて」
「なるほどなるほど。……別れそう?」
「それはないです」
 二人が付き合っていることを察している萩医師の軽口を他所に、敏明は静かではあるがハリのある声で否定した。
「食い気味だなあ……ま、それでいいんだ」
 マグカップの残りのコーヒーを一気に飲み干して萩医師は言う。
「いやいいと決まったわけじゃないけど。こうして君が佐倉さんに関わり続けるっていうのが君や彼女のプラスになるんだよ。きっと。例え彼女に何を言われようともね」
 敏明の脳内で先日の柚木の言葉が、先生の言葉で薄く和らいでいく。
「ああだから君の入院も伸ばしておくことにするよ」
「えっ」
「大丈夫大丈夫。どうやら君の加入保険金だと入院している限り資金は心配なさそうだし、やっぱり二人でいた方がいいでしょ。早めに大家さんに連絡しておくといいよ」
 なるほどと敏明は思った。自分だけ先に退院したところで柚木のいない生活は耐えられず気が滅入って衰弱することが容易に想像できた。
「さてと、今回の診察はおしまいだ。次は……ってまずい! オペもうすぐじゃん! ああ椎葉くん! 電気消して、ドアも鍵しなくていいからあとは任せたよ!」
 萩医師はそう言うと慌ただしく準備もそこそこに出て行こうとする。その彼に敏明が声をかける。
「先生!」
「ん! なんだい」
「先生は…………奥さんがいらっしゃいますか」
「…………別れたよ。短い結婚生活だった。……子どもが生まれなかったのが皮肉にも幸いだったのかな」
 口早に言って、次こそ萩医師は飛び出して行った。
 敏明も、松葉杖を携え診察室を出た。


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 季節は十一月。暑さも完全に引き、しっとりとした涼しい風が黄色く輝くイチョウの葉を撫でる。イチョウの木の下だけ幹を取り囲むように黄色い円の絨毯が厚みをもって描かれていた。
「気持ちいいね」
 敏明が呟く。
「うん、気持ちいいね」
 柚木も穏やかに返事する。
 とある日の昼過ぎ。敏明と柚木は病院の近くの大きな公園にいた。休日などには家族連れがシートとお弁当箱を開いてピクニックをしたり、また時折ステージを設置して催し物が行われたりするほどには大きな公園である。二人は遊歩道沿いのベンチに座り、目前に広がる緑の広場を見つめていた。広場では子供たちがサッカーボールを蹴ったり鬼ごっこをしたりしてきゃっきゃと遊んでいる。それをシートに座ったお母さんたちが見守りながら歓談に華を咲かせていた。
「微笑ましいな」
 敏明が眺めながら言う。
「そうだね」
 柚木も微笑みながら言った。今日の彼女は調子がいいように敏明には見えた。
「柚木は、小さい頃どんなことして遊んでたんだ?」
「どうしたの、急に」
「いや、僕たち出会ってからさ、意外とそんなことは話したこと無かったなあって」
「そうだっけ? ……まあ普通の女の子らしく過ごしたかな」
 広場の子どもたちを見ながら柚木は続ける。
「両親が亡くなって、施設に預けられて。そこで自分と同じような運命の子どもたちと出会って。一緒にままごとしたり、ちょっと大きくなったらみんなで外で鬼ごっこしたり、虫取りしたり。それでもうちょっと大きくなると、部屋で本を読んだり、父母さんのお手伝いをしたりしたなあ」
 柚木の言う父母さんとは、児童養護施設の職員のことである。柚木の暮らしていた施設の職員は、柚木たち子どもを我が子のように愛し育てた。小さな施設でお金も無かったが、そこにいる人はみんな幸せだった。
「へえ、お手伝いかあ。柚木からは想像出来ないや」
「ちょっと、それどういう意味?」
 ぷくぅと柚木が頬を膨らます。
「いや、あの自炊が下手な柚木からは想像がつかないなってことで」
「……だって手伝ってたのは洗濯とか掃除とか、あと小さい子たちの面倒見だったもん」
「はいはい」
 あやすように返事をしつつ、敏明は充足感に包まれていた。軽口をついても大丈夫そうな柚木を見て安心していた。自分がしっかりと、彼女を支えているような気がした。
「アキ、横になって」
 柚木が唐突に切り出す。
「え?」
「アタシの膝に頭置いて」
「いや、これでも僕、松葉杖使ってる身なんだけどなあ」
「いいからいいから。ほらっ早く」
 しぶしぶ敏明は左足の怪我に響かないよう慎重に体を動かしていく。そして、柚木の太ももに頭を置いた。カサカサした患者服の下に確かなぬくもりと柔らかさを感じた。秋風に敏明の髪が揺れる。
「…………で」
「んー?」
「いや、これから何が始まるのかなと」
「何もないよ? ただアタシが膝枕してあげたかっただけ」
「……え? 何それ」
「それだけの話。ほんとは敏明の頭を撫でてあげたりしたいんだけどね」
 そう言いながら、欠けてしまった短い両腕を振ってみせる。患者服の長袖が不自然に踊る。
その一言で、敏明は一瞬で心臓が締め付けられる。
「…………ほんとに、ごめん」
 目を瞑って敏明は謝る。
「いやいや謝るところじゃないし。むしろ感謝だよ、アキ」
 敏明が見上げると、柚木の細く綺麗な下顎が見えた。柚木は広場の方を見ながら続ける。
「人ってさ、無くしてからじゃないと本当に大切なものに気づけないんだよ。アタシが気付いたのは、手が無いと人に想いを伝え辛いこと。ジェスチャーとか手遊びなしの会話って、まだすごい違和感を覚えるんだ。それだけ、手にいろんな想いが乗っていたんだって実感したよ」
 それにさ、と言いながら柚木は敏明の顔を見る。およその距離二十センチメートル。敏明は彼女の左頬に貼られた医療ガーゼよりも白くシミ一つない肌を綺麗だと思った。
「敏明も無くして気づいたんじゃない? カノジョの一部位がこの世から消えて、手が無くなって。カノジョの大切さに」
 ニコッと小さく笑う柚木。敏明は心拍数が上がるのを感じた。だが、妙にそれが嬉しさと気恥ずかしさだけではないこともすぐに分かってしまった。僅かながらに生まれた、恐怖心。それを振り払うかのように敏明は体を起こし柚木の太ももから離れた。
 ベンチに座りなおした敏明の肌着は汗に濡れ、秋の涼風がそれを隙間から乾かしていた。
「全く……ほんとにどうしたの突然。君らしくもない」
 実際、これまで柚木から敏明をときめかせるような発言をわざとすることは無かった。
「…………君らしくない、か……。まあ確かに、自分からこんなにいったことは無かったかもしれないけど……でも……」
「え……」
 柚木は真顔で黙り込む。敏明には少し困った表情にも見えた。
 それから敏明が気を利かせて話題を変えても、柚木は反応しなかった。
 やがて時間が来て、予定通り看護師が車椅子を押しながらやって来た。そして柚木を乗せると、病院の方へ遊歩道を通って向かっていく。
 敏明も松葉杖を脇に挟んで立ち上がる。
 イチョウの葉がひらひらと二人の背後で盛大に舞い落ちていった。

  続く

What number are you ?