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3
「では! 椎葉の外出許可がでた記念日に! あと全快を願って! かんぱあああい!」
「「「かんぱーい!」」」
ビールジョッキや酎ハイグラスがぶつかり合う。居酒屋特有の濃黄色の照明にアルコールの液体が反射する。
「いやあ! 事故ったって聞いたときは信じられなかったけど、まじで入院してたからな! しかもかなりの重傷! 辛かっただろう!」
下戸なのに大ジョッキビールを半分一気飲みした今回の幹事が、さっそく顔を真っ赤にしながら大声で敏明の隣に座り込んでくる。
「ま、まあ大変だったよ」
勢いに押されながら返事をする。
「そうそう! まあそれでも二か月してようやっと外出許可もらえるくらいには回復したんだな!」
「良かった良かった! めでたいめでたい!」
「あ、ありがとう」
「てか二か月って長くね? や、足掛け三か月か」
「な、なんか脳検査とか神経検査が長引いちゃってさ。あと、リハビリとかも」
「まじか! もしか、診察とかで金余分に取られた感じ?」
「いや下りるだろ保険」
「い、一応ね」
次々と参加者が机に身を乗り出し敏明にぐぐいと詰め寄って騒ぐ。
一緒に飲むくらいには気心の知れた大学の連中が、敏明のために宴会を開いてくれた。時は十二月。敏明のリハビリも終わり、元の生活に戻れるところまで回復したのを見計らっての開催であった。軽い飲み仲間程度に思っていた敏明は、宴会招待のメールが来た時から何か救われたような気がしていた。
自分の怪我もさながら、柚木への罪悪感を背負い続け、心が疲弊しきっていた。その敏明にとって、この宴会は正直ありがたいものであった。
「そーそー、そーいえば佐倉ちゃん? 手の話は聞いたよー。気の毒だったねー」
宴会が始まって一時間ほど経ったあと、診察代について聞いてきた男が顔を提灯のように赤らめて敏明に絡んでくる。
「おいっ、その話は」
近くにいた他の男がそれを制止しようとする。
「ああ、構わないよ」
敏明の一声にその個室だけ静寂が訪れる。他の客たちの喧騒が遠い。敏明は飲み終わっていなかった一杯目のぬるいビールをごくりと一口飲んだ。放置されていたビールの味は不味く苦かった。
「……その話はタブーじゃないのか?」
開始早々に寝始めていた幹事の男がいつの間に起きたのか、敏明に伺い立てる。顔は十分すぎるほど赤かったが、目は真面目だった。
「うん。大丈夫だよ。柚木も最初は辛かったみたいだけど、今はもうだいぶ受け入れ始めているみたい。僕は、寄り添うことしか出来ないけど、でも寄り添うことが出来るのは僕しかいないと思ってる。だから、大丈夫。大丈夫にしてみせる」
時が完全に止まって数秒、どっとみんなが歓声を上げて敏明に抱きつく。
「トッシーおまえええ! いい奴過ぎんだろうがよおオイ!」
「見直したぜ敏明! お前が彼女を幸せにしてやれ!」
「椎葉っ! 俺は、俺は今っ、猛烈に感動しているっ!」
「店員さああん! このページのメニュー全部! この男前のために!」
「おいお前ら飲むぞ! 新たな門出のはなむけだ!」
「お前それちょっと違くね? でもまあいいや祝おう! 敏明万歳っ!」
酒気帯びた男たち数人に押しつぶされ、髪もしわくちゃに触られ、店員に少し疎ましそうに見られたが、この友人たちが心の底から敏明を応援してくれていることに敏明は思わず涙腺が緩みかけた。実際さっきの発言において、柚木の気持ちはまだ一片たりとも分からないままでいた。彼女が全てを受け入れたのか分からないままでいた。それでも、今この瞬間敏明がとてつもなく幸せであることは、彼の笑顔の上に走る一筋の涙の軌跡だけが証明していた。
♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦
十二月の夜風が敏明の羽織ったパーカーを時折靡かせる。宴会の帰り道。時刻は八時を回ろうかというところ。宴は敏明の大事をとって早めなお開きとなった。病院から十分歩いて行ける距離の居酒屋という配慮もあり、敏明は大きな公園をゆったりと通り抜け、闇空の中該当に照らされている紅葉を見ながらあの病室へ帰っていた。
温暖な気候といわれるこの地方でも、十一月の頭ともなると夜の寒さは身に染みる。体の火照りを夜に溶かしながら敏明は幸福感でいっぱいだった。柚木ほどではないにしろ重傷を負った自分を支えてくれる仲間。集まって鼓舞してくれる奴ら。自分の不幸を呪ったこともあったが、今なら自分に降りかかるどんな災難も乗り越えられそうだと彼は思った。
夜、ひときわ明るく照らされた病院の正面玄関に辿り着いた。敏明は受付で外出許可証を返却する。目的の階までぎゅんと天に上るかのように思えたエレベーターで到着し、明るく輝いた白電灯の廊下を心なしか足取り軽く進む。
しかし、幸福は灰と化す。
二人の病室のドアを開くと、敏明の目を闇が襲い込んできた。まだ九時にもなっていない頃から、この白い部屋に灯りは無かった。ただ敏明の後ろから漏れてくる廊下の光が入口付近の空間を辛うじてか細く照らし青白い空気を敏明に吸い込ませているようであった。
「…………柚木?」
少し目の慣れた敏明が窓の方を見る。窓は閉じられており、外から入ってくる夜の光が柚木の姿をぼんやりと写し出す。彼女は上半身を起こし、膝元に置かれた液晶パネルをつついていた。画面から溢れる透明な緑淡色の光が柚木の顔を幽鬼の如く浮き上がらせていた。
気づけば敏明は冷たい汗を肌着に滲ませていた。
「ど、どうしたの。電気もつけないで。目悪くするよ?」
どもりながらも敏明は魔物の巣窟を進む気持ちで部屋の中を歩く。そして柚木の手元にある照明リモコンに手を伸ばそうとする。
「待って」
決して大きくない低調な声に敏明は固まる。動けない。
「ねえアキ」
そういうと彼女は短い手で器用に掛布団をめくり、足をベッドから出して立ち上がると、敏明に近づいてきた。
金縛りのように動けなかった敏明であったが、「冷えるとよくないよ」と辛うじて彼女の羽織りを彼女の肩に掛けてやる。短い手が服に隠れて見えなくなった。
「やっぱり優しいのね、アキ」
そんなはずあるか、と敏明は思う。服を掛けてやったのも、正直まだ見慣れない柚木の欠けた腕を自分の視界に入れないようにした心理故である。
「ねえアキ」
顔を伏せながら柚木は言う。敏明にその表情は見えない。
「アタシ、あなたのことが好きよ」
「………………ああ」
「愛してる……愛しているから…………」
そう言うと柚木は黙って、肩を震わせ始めた。体は小刻みに揺れている。
「……柚木」
敏明は優しく両手を回して抱いてあげようとした。泣いている彼女を救おうと。
しかし、
「…………ふひっ」
「柚木?」
「くっふっふ…………ははははハハハハハハハ!」
突然壊れたスピーカーのような奇声を上げ始めた柚木。あるいはそれは地獄の悪魔が耳を劈(つんざ)いてくるような絶笑だった。
「そうよ、そうよそうよそうよ。アタシはアキを愛している……っ。大好きなの! たったこれだけのことじゃないっ、答えはこれだけだったのよっ! ああ、馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたいバカみたいバカみたい馬鹿バカばか馬鹿バカバカバカバカ。ねえアキ。アキ君ってば。呆けてないでアタシを抱いてよ! 力強く抱いてよ! アタシが出来ないことアタシの分までしてよ! アタシ腕無いから手を回すことも出来ないんだよ? ハハハ。ねえ早く!」
泣いているように見えた柚木は笑っていた。最初からケタケタ笑っていたのである。
狂気じみた、いや、狂気そのものと化した柚木を見て、敏明は立ち尽くすのみであった。しかし呆然とする意識の中で、彼女はもう手遅れなんだ、ということがじわじわと鮮明に認識させられていた。
悪魔の笑い声が白い部屋で木霊する。
4
「ねえアキ、お祭りに行かない?」
柚木がそんな提案をしてきたのは年も明けた一月のことである。その日は風もなく、やわらかい日差しが外の世界を包んでいた。敏明たちの白い部屋は、そのやわらかさをカーテンで遮っていた。届くのは光と熱のみ。
「……祭り?」
「そう。お祭り」
「…………どんどやも終わったし祭りなんてないんじゃないかな」
「それがね、あるんだよ。ほらこれ」
そう言ってタブレットに表示された画面を見せる。
「…………瑞(ずい)鳥(ちょう)祭(さい)?」
そのサイトはお世辞にも見栄えがいいとは言えなかった。フォントも写真の貼り方も見様見真似で作られた感が溢れていた。
「…………ここに行きたいの?」
「乗り気じゃない?」
「…………まあ」
「なんか室町時代から続いてるお祭りなんだって。場所だってこの神社だし、大規模なやつだよ。距離もそう遠くないし」
柚木の開いた別タブに地図が表示される。地図にピン止めされたその神社は、この市内で最も大きく、そして敏明たちのいる病院からそう遠くもなかった。
「…………まあ、分かった」
「ありがとう。やったっ」
柚木はきゅっと笑うと、すっと真顔に戻ってタブレットを弄り始めた。
敏明は自分のベッドに柚木と反対向きに腰掛け、そっと右手で眉間を支えた。
十二月の出来事以来、敏明は段々と、しかし着実に疲労が溜まってきていた。あの日発狂した柚木を見て、自分一人では何もできないことを痛感した。これまでの苦労が水の泡になったこともさることながら、敏明は未来への絶望感に苛まれていた。たぶん、柚木が社会復帰をする日は来ない。彼はそう思った。いや、そもそも閉鎖された二人の空間だけで生きてきた人間だ、元から社会との鎖なんてなかったんだ、などと自嘲めいた笑いを薄く浮かべるくらいに敏明は、終焉という名の海に囲まれた岬の上に立っていた。
一方、佐倉柚木は。
十二月の出来事以来、しとやかだった彼女は愉快になった。突然何となしに笑い出す。ナースコールを使って呼び出したナースに「朝ごはん美味しかったわ。あなたは?」と尋ねる。病院内で男子トイレに入り「あら、間違えちゃった」と照れる。以前の彼女は普段笑うことはあまり無かった。ただ、やはり傍から見ても、愉快を通り越して奇怪奇妙の領域に彼女は達していた。
また突然柚木がカラカラ笑い出す。初期のように敏明がびくっと肩を竦めることはない。いつも、その笑いに理由がないことを敏明は知ったからである。
カラカラケタケタ。女の笑い声が一月の陽だまりを割く。
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瑞鳥祭は例年一月の第三週土曜日に催される。今年も例に漏れず、敏明と柚木が日暮れ時に神社に赴くと、すでに人で溢れかえっていた。
「うわあ、人多いね」
「……そうだな」
敏明は藍色のⅤネックセーターに白いダウンジャケットを重ねた出で立ち。柚木は黒セーターに赤のカーディガンを首元でボタン止めし、さらに幾重かの色取り取りなポンチョや大判ストールを羽織って両腕を隠している。
「あ、こっちこっち」
柚木が敏明を導く。連れて行った先には、細いしめ縄で区切られた空間があった。普段参道であろうその場所には、小学校高学年から中学生までの二十人ほどの少女たちが淡い薄紅色で袖の長い和服のような舞踊衣装を纏い、屈み腰の姿勢で待機していた。しめ縄の外側でがやがやと何かを待つ人々。その人垣の隙間から敏明がぼんやりと眺めていると、不意に篠笛の音色が響き始め、少女たちがすっと立ち上がり舞い始めた。
「瑞鳥ってね」
厳かにそして華やかに舞う姿を見ながら柚木は隣に立つ敏明に話しかける。
「瑞兆って言葉知ってる? なにかいいことの兆し。幸せが訪れる予感がすること。そんな意味なんだけどさ。その瑞兆の漢字が変わって、瑞鳥になったんだって。でもねこのお祭りの由来にはほんとに鳥が出てきてね……………………」
祭りの由来の当たりから敏明は柚木の話を聞いていなかった。ただ、幸せの兆しについて思い耽っていた。自分に兆しは呈するのか、いや、今すでにこれで最大幸福な状態なのかもしれない、などと思う。途中から柚木も喋るのをやめていた。
数分経って、舞いが終わる。少女たちが動きを止めると、しとやかに拍手が広がった。拍手の合間を縫って二人は一足先に人混みを抜ける。屋台の並ぶところまで来ると、柚木が唐突にふらふら蛇行しながら千鳥足で敏明の前を進む。その行動に意図も理由もない。ただよれよれと灰色の空を飛ぶカモメのような動きを彼女はしていた。
ドンッ
「あ」
柚木がすれ違った中年の男とぶつかる。敏明は「彼女が倒れる」と思った。
彼の予想通り柚木は道路に倒れた。敏明は彼女のもとに足早に駆け寄りしゃがみ込む。そしてぶつかった相手を見て言った。
「すみませんでした」
男は敏明たちを一瞥しただけで、特になんでもないという風に立ち去り人混みに消えた。
大丈夫、と手のない彼女を敏明が抱え上げようとしたところで、柚木が呟く。
「……なんで、謝るかなあ」
「え……っ」
「だから、なんでアタシのこと置いといてあの人に謝るかなあって! アタシより謝罪が大事なの? アタシがあなたの大事な人よね⁉ ねえ!」
柚木の絶叫に周囲がざわつく。
敏明は驚きと落胆に打ちひしがれつつも、彼女を連れて神社を後にした。
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神社を出る頃には柚木も叫ぶのをやめていた。しかしいつまた叫びだすか分からないと思った敏明は病院へ帰ることにした。あの白い部屋へ。
二人は黙って歩く。
敏明は、限界を感じていた。
過去への同情と同調。そして事故への責任。それらが、柚木とともに歩もうと敏明に決意させた。しかし、彼は疲弊しきっていた。いくら現状を維持しても、少しでも彼女を前に進ませようとしても、変わらない。むしろ、彼女は壊れた。自分の怠惰な愛情で壊してしまった。敏明はそう考えていた。もう、ダメだと。
彼女と別れるという選択肢も彼は考えた。しかし、離別したところで、彼女は彼の中に生き続ける。そして時折首をもたげて彼に怨嗟と呪いの言葉をかけてくることも彼は分かっていた。それほどまでに寛恕の存在もまた敏明の中で大きな巣を作って彼の心を喰らっている。また敏明の深層心理では彼女からもたらされる苦痛を贖罪として快楽に思っている自分もいた。これが、彼がどうしようもなく動けなくなった理由である。
椎葉敏明は八方ふさがりだった。
逃げ場はない。
時刻は八時過ぎ。病院近くの大きな公園。以前宴会のあと通った場所。街灯が曇天の夜空を浮き上がらせる。夜の闇と厚い紫黒雲がすべてを押しつぶしてしまいそうだった、
「あ、雪」
空を見つめる敏明が気づくのと同時に柚木もまた気づき声を出した。雪はしとしととゆっくり一斉に降ってくる。顔の前で吐息を漏らすと、一粒の雪がその場で溶け消えた。
そのときだった。柚木が何の前触れもなく、倒れたのは。
ふらふら歩いて躓いたわけでもなく誰かにぶつかったわけでもなく、ごく自然にそれが摂理かの如く倒れた。
「……! 柚木!」
敏明が声を張り上げ柚木を支える。彼の腕の中の柚木は微かに顔色が青白かった。敏明は彼女を抱きかかえながら、道が閉ざされるのを感じた。崩壊の音を聞いた。
すると柚木が微笑む。
「ねえ、アキ」
いつもと変わらない調子で。静かに優しく。そして。
「一緒に死のう」
敏明にとって柚木の美しさはこの世の真理で。
だから、真理の崩壊の音色は残酷で。
そして。
いつしか音色は歌に変わっていて。
それは、宙へ誘う天使の歌声で。
「……………………………………………………ああ」
敏明は、すべてがどうでもよくなっていた。
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「準備はできた?」
「要らないでしょ。何も」
「遺書とか残さないの?」
「残しても読む相手がいない」
「……フフ、そうだね」
海から押し寄せる荒波がそびえ立つ崖にぶつかって割れる。白波が四十メートルの高さにいる敏明たちのところまで跳ね上がる 轟々としたその音は地響きとなって二人の体に振動する。海と陸の衝突音は、皮肉にも二人に生きている実感を与えていた。
一月末日。午後二時半を回ったところ。空は海に負けないくらい濁った青墨色である。
二人は手持ちの金をほとんど使って、いくつもの県を越え、遠く遠く離れ、辺鄙な廃れた村に行き着いた。二人の住民とすれ違い挨拶をした程度で、敏明と柚木は蛾が灯篭に吸い寄せられるように、海沿いの峨峨たる断崖へと歩を進めた。
「……じゃあ、いきますか」
敏明が一歩踏み出す。
「あ……待って」
柚木が制止する。止まった敏明は彼女が死の直前に怖気づいたのかと思った。しかしそれは違った。
「こういうときって、二人手を縄で結んで逝くのよね。でもアタシはそれが出来ない。アタシたちは出来ないの。だから、抱きしめて。アタシを抱きしめて」
そう言うと柚木は、短くなった腕をストールの中から覗かせ持ち上げた。腕から先はない。断続面は歪な丸みを帯びていた。しかしその肌は白く綺麗であった。敏明には消えた透明な指先が自分に向かって伸びるのが確かに見えた。
「…………分かったよ」
敏明は柚木の肩に手を回し抱きつく。力いっぱいに。柚木の短い腕が敏明の脇元に触れる。柚木の髪の匂いが敏明の鼻腔を犯す。二人は、一つになっていた。
「ああ……ああ……っ アキ……っ」
柚木が嬌声とも断末魔とも取れる声を出す。
敏明は耐えられず、柚木を抱きしめたまま地を蹴って宙を舞う。そしていつしか。重力に従って。荒波が渦巻く地獄の入口へと流星の如く堕ちていく。
強い衝撃のあと、二人はすべてを壊してしまうような強い渦潮の中にいた。そこは暗黒に覆いつくされた極寒の世界だった。
海面に叩きつけられた二人の体は全身骨折になり、敏明の喉に鉄の味が広がる。内臓もどこか破れたらしい。しかしそれでも、力がどんどん抜けていっても、敏明は柚木を離すまいと残り僅かな力で抱きしめ続けた。腕のない彼女はすがって抱きつくことが出来ない。そうした思いが敏明に最後の力を与えた。
激痛と極寒に敏明の意識が朦朧とし始めたとき、不意に彼の唇に温かさが触れる。激しい潮流の中で敏明が辛うじて目を薄く開くと、目の先に、柚木の閉じた目があった。睫毛が吹き荒ぶ海流で強く靡くのが見えた。その距離にあって初めて敏明は、自分の唇に触れているものが彼女のそれと分かった。柚木の唇が冬の海の中で凍てつき硬直していた。そこに柔らかさは無い。しかし凍ったブドウのような感触の先に、確かなぬくもりがあった。
柚木が笑顔を見せる。それは最近の狂気を宿った笑みではなかった。出会ってから秘密を告白しあった頃のような、慈愛と幸福に満ちた微笑みだった。彼女の瞳は水中の泡を反射させて輝いていた。暗い海の中で、彼女の微笑みだけが光って見えた。
その瞬間、敏明は死に抗うことをやめた。心が穏やかになる。
そしてまた、二人はどちらともなく口づけを交わした。敏明が柚木に息を吹き込む。柚木もまた敏明に息を与える。体温だけが戻る。その最後のときまで。最後が訪れるまでは二人一緒にいたかった。柚木も。敏明も。絶望していた彼もやはりまた人間であった。息絶える前に人のぬくもりを求めた。人形劇で踊る人形のように二人は縦横に蹂躙される。
互いの体内の息を交換する。二人は溶け合う。溶け合って、暗い海へと消えていく。
5
敏明が目を覚ましたときに目に入ってきた光景は白い天井だった。
既視感溢れる光景に彼の頭は違和感を覚える。
起き上がろうとすると、体中に激痛が走った。思わず寝倒れる。
「ああ起きたか。無理に起き上がるものじゃないよ」
ふと敏明の横から声がした。敏明は目だけ横を向く。
「萩先生……」
三十代後半にしては若々しく精悍な顔つき。うっすら伸びる無精髭。白衣の前ボタンを閉じずに着こなす萩医師が、敏明のベッド傍の丸椅子に足を交差させて座っていた。
「……あれ…………僕は……何を」
「覚えていないか?」
「……………………っ」
段々と冴えてきた頭に敏明は思い出す。事故。病室。腕。診察室。宴会。公園。神社。海。潮。そして
「……柚木」
敏明はすべてを一斉に思い出す。あの狂気に満ちた笑顔も。海の中の彼女の微笑みも。
「! 先生っ、柚木は……柚木は無事なんですか!」
敏明は勢いだけで体を起こす。さっきとは比べものにならないくらいの痛みが敏明を襲う。あまりの痛さに敏明は気を失いそうになった。
「……っ! だから起き上がるんじゃないっ。死にかけてたんだぞ君は!」
萩医師に支えられながら敏明はなんとかベッドに寝戻る。
「死にかけてた……」
「ああ、夢でもなんでもない。君と佐倉柚木は三県も離れた場所の海崖から飛び降りたんだ。不審に思って後をつけていた村の人の連絡が無かったら君は手遅れだったんだぞ……」
「君はって……。だから柚木はどうしたんだ!」
「佐倉柚木は死んだ」
敏明はガツンと殴られたような気がした。
一瞬にして静寂が訪れる。
「…………え」
「…………心中しようとした奴が疑問を呈するな……。君たちが飛び降りて数時間後、椎葉君だけが五十メートルほど離れた浅瀬の岩場に打ち上げられているのを見つけたそうだ。だが佐倉さんは行方が分からない。君の近くにはいなかったそうだ。悪天候が収まってから海上捜索も始めたらしいが…………見つかっていない。二日経った。恐らく、もう……」
そうゆっくり言うと萩医師はコーヒーをぐいっと一杯喉に通した。苦味が強かったのか、話が苦しかったのか、萩医師は顔をしかめている。
「……そんな……柚木が…………」
敏明は頭が真っ白になる。
萩医師がその様子を見て立ち上がる。
「俺から、一言いいか」
萩医師の一人称が変わったことにも気づかず敏明が虚ろな目で彼を見る。萩医師は一つ深呼吸し、そして力いっぱい握りしめた右こぶしで敏明の頭上の壁をひび割れんばかりに殴った。バゴッ! と鈍く大きな音が生々しく部屋に響く。
「お前何バカなことしているっ! ふざけんなクソガキ! 命を粗末にする奴の望みが叶うと思うなよ‼」
これまでに見たことない彼の雷のような怒声は敏明の鼓膜を破るかと思われた。敏明はぽかんとした表情で萩医師を見る。
「……ふう。あー気が楽になった」
そう言って萩医師は右肩をぐるぐる回す。右こぶしは少し皮膚が破れて血が出ていた。
「ぶっちゃけ自分の道なんか自分で決めていいって俺も分かってるさ。ただやっぱどうしても医者の性分なのかなあ、死んでいくっていうのは、許せんのよ……。八月、最初にお前たちが運ばれてきたとき、少し気分が悪かったよ。もしかしたら、こいつら自殺しようとしてたのかなって。まあ話しているとどうやらほんとに事故っただけのようだったから不問にしたけど。というかね、やっぱ困るんだよ。僕が預かっている入院患者が抜け出して自殺するなんて。だから上の人たちが必至で緊急搬送先の病院から君を引き取ったんだよ。あーあだから今からの会議でもまたすごい怒られるんだろうなあ」
萩医師の変わっていた口調が段々普段通りに戻る。最後の方は冗談めかして苦笑気味に言う。
「とりあえず僕からは以上だね。あと……これは君次第なんだが、佐倉さんの遺書が見つかった。遺書というか、彼女のあのタブレットに書かれていたものだ。それをどうするかって話だね。ま、次また来た時にでも返事をくれ」
そう言うと萩医師はカルテなど荷物を手に取って部屋を出ようとする。
「……っ先生!」
敏明が振り絞って声を出す。萩医師が立ち止まって首だけ振り返って笑う。
「……僕が出て行くタイミングで呼び止める君の声にも慣れさえ覚えてしまったよ。……なんだい、椎葉くん」
「…………叱ってくれてありがとうございます……あの、手、大丈夫ですか?」
萩医師はきょとんとしたあと、吹き出すように笑う。
「っく、何を言うかと思えば。礼には及ばないよ。大丈夫。僕は左利きだ」
右手をひらひらさせながら萩医師は白いドアの向こうに消えていった。
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三月の陽だまりが雪を溶かす。
午前十時。病院の屋上で敏明は、雪の消えて浮き上がってきた町と、春の強い風に吹かれ散り散りに靡く薄い雲を見ていた。
柚木の残した文章データを見ることなく敏明は看護師に削除を依頼した。読んだところで、彼女の全てを知りえないと思ったからである。いや、例え永遠が存在したとしても、その中で全てを知ることは、大切な人一人の全てを知ることは、叶わないのかもしれない。そう彼は思った。
松葉杖を柵に立て掛け、敏明はハイライトの煙を吹かす。紫煙は空へ昇り雲に混じるようであった。タバコを吸い始めたのは萩医師への無意識の憧憬であるが、そのことを敏明は意識していない。
突如、強い風が吹き抜ける。屋上に干されていたシーツが一斉にはためく。轟々と音を響かす。その瞬間、それだけで、敏明は自分の中に残る雑念や雑味全てが体のありとあらゆる毛穴から飛ばされていくかのように錯覚した。服も弛んだ包帯も髪も睫毛も一陣の風の中で吹かれ乱され、浄化される。まばゆい光が風とともに敏明の目に刺さる。敏明は網膜が焼けたのではないかと思った。
風が止む。敏明がハッと気づくと、やはり変わらない町の風景が横たわっていた。
それでも、彼の心が澄んでいる今であっても、彼には町は変わらず灰色にしか見えない。敏明は思う。
人生は総じて、望むような、楽な、劇的な結末を迎えられないのだと。
そんな当たり前のような、ありふれた一般人に与えられたよくある運命を彼自身知っていたつもりであったが、知っていることと受け入れることは違う。自分の未熟さを知った敏明は、悔しいと思うでもなく、恥ずかしいと思うでもなく、ただ、未熟な自分が経験した過去があったのだな、と思うだけであった。回想はしても猛省はしない。そんなのらりくらりとした男が、タバコの火を踏みにじり屋上をあとにする。
ただ、そんな彼は今こそ、一般人になったのである。起伏のない感情。鉱物的な感性。
崩壊の音色はもう彼にも聞こえない。
了
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